【マルヨシ通信No.88】
また一人昭和の英雄が旅立ってしまいました。プロレス界のスーパースターで参院議員を務めた、アントニオ猪木さんが10月1日全身性アミロイドーシスと言う難病でお亡くなりになりました。 享年79歳です。猪木さんは異種格闘技戦でボクシング界のスーパースターだったモハメッド・アリ選手と試合を行うなど華やかな世界で一世を風靡した有名人という印象が強いですが、含蓄のある語録を発しており50冊以上の猪木本が世に出ておりまます。プロレスや猪木さんをご存じない読者の為に猪木さんのプロフィールをご紹介致します。
【アントニオ猪木】本名 猪木寛至 横浜市出身。5歳の時に父親が死去。13歳の時に母、祖父、叔父ら一家でブラジルへ移住し農場で働きながら砲丸投げと円盤投げでブラジルの全国大会で優勝した。
この時、遠征で訪れていた力道山にスカウトされて帰国し日本プロレス入り。同期のジャイアント馬場が早くから米国遠征をしてエリートコースを歩んだのに対し、猪木は力道山の付き人として理不尽に殴られた事は何度あったか分からない生活だった。
然し、この時磨いた忍耐力がその後の人生に大いに役立ったと後年述懐している。72年に新日本プロレスを設立し、89年参院選に立候補し当選した。議員時代は湾岸戦争前、フセイン政権下のイラクで人質となった邦人36名の解放を実らせた。
北朝鮮訪問は33回に及び、誰かが窓口を開いていないと交渉が途切れてしまうと必死に国交正常化を模索していた。 私生活では4回結婚して、子は2人。71年女優の倍賞美津子さんとの結婚は大きな話題になった。
【猪木語録ベスト】
猪木さんの銘語録は沢山ありますが98年4月、55歳で引退試合を終えた後に述べた「人は歩みを止めたときに、そして挑戦を諦めたときに年老いていく」という言葉が有名です。
「私はプロレスからは引退するが引退は自分の新しい人生の幕開けだ。常にチャレンジ精神を失わず困難に挑戦して行きたい」と述べ、日本全体がバブルの後遺症に浸かっていた中で多くの人が元気づけられました。
【2007年6月 朝日新聞インタビュー】
プロレスラーになって、国会議員になって、借金もスキャンダルもあって…でもおれはデタラメをやって人を騙したりしたことはない。
採算の合わない事業に手を突っ込んだと批判されたら返す言葉はないけど、時が全ての裁判官になる。忍耐力と元気があれば持ちこたえられる。不安だらけの人生だけどいつかは「猪木らしい死に様を迎えたい」と思っている。
95年の北朝鮮平壌での米国人レスラー、リック・フレアーとの対戦では観客動員数19万人というプロレス市場最高の観客動員数を記録した。
こんなイベントを組めるのは後にも先にも猪木さんしかいないと報道された。
「生身の人間同士の付き合いで思想や理念なんてものは邪魔にしかならない。バカになれ。恥をかけば本当の自分が見えてくる」
世間はプロレスラー猪木に注目しがちだが、猪木さんは人に好かれる人たらしの得意技を持っている事は知る人ぞ知る事実。
北朝鮮の金正恩主席、キューバのカストロ国家主席、イラクのフセイン大統領など日本の首相でも簡単に会えない人と面談している。
相手も猪木さんに人間的魅力と器の大きさを感じたから会おうという事になったと解説されています。破天荒な昭和の巨星がまた一人堕ちました。
ページ作成日 2022-12-12
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